⑨良寛放毬の詩碑
良寛没後4年天保6年(1835)、文政の三条地震に続く天保の飢饉のさなか、良寛を敬慕した三条町人たちが建立した。
交通
神明社前 JR燕三条駅より4.0km
JR東三条駅より1.2km
JR北三条駅ょり1.0km
越後交通・新潟交通バス神明町下車10m
高速道路三条燕インターょり3.6km
解説
裙子短兮褊杉長 騰騰兀兀只麼過 陌上兒童忽見我 拍手斉唱(放)毬歌 放 | 裙子短く偏杉長し |
一の木戸神明社境内の築山に建立されている、詩碑の原文と読みくだしです。
「良寛さまが短い袴に長い法衣を着て、なんのこだわりもなく気ままに歩いてゆくと、道ばたの子どもたちがすぐ見つけて、みんなで手をうちながら、手まりうたを歌った」という情景が浮かんでくる詩です。
この詩碑は、良寛の思慕の念の厚かった伊藤呆庵が所蔵していた遺墨から、特にこの詩幅を選び、建碑の費用全額を寄付して、良寛さまがよく立ち寄られた鎮守の境内に建てたものです。
碑文の中で「放毬歌」とするところをうっかり「放」の字を書き落し、末尾に小さく「放」の字をつけ加えてあります。良寛さまはよほどこの詩がお好きと見え、同詩の遺墨が幾つかありますが、呆庵はこの補筆のある書が最も良寛さまのお人柄を偲ぶにふさわしいとして、いしぶみで後世に伝えることとしました。碑は高さ154cm・幅73cmの仙台石で、碑陰には次の「良寛詩碑建立の記」が刻まれています。
古老の伝承に曰く一之木戸神明宮前団子茶屋利右衛門に老婆あり篤く良寛を尊崇す和尚亦ここに息いて茶を欷り布施の団子を契し老婆と語るを楽しみとす時に慕ひ集る児童達と嬉嬉として毬をつきにしと会員伊藤喜一郎君これら伝承の烟滅を借しむと共に永く良寛の遺徳を偲はむと建碑を発願す茲に於て良寛思慕会は放毬の詩を刻み因縁の地神明宮境内松韻浙浙たる池畔に是を建つ 爾時良寛没後百三十三年なり
昭和四十一年五月三日
三条良寛思慕会々長 桑原謙一
除幕式は憲法記念曰の翌4曰午前11時から、関係者と出雲崎、分水町はじめ各地からの参列者など60人が参列して挙行されました。三上宮司の祝詞奏上ののち、今町板垣大助の「放毬詩」の詩吟朗詠の流れる中で、呆庵の孫、栄二郎が網を引き、白布の幕が除かれました。次いで思慕の会の渡辺甚作の手で、詩碑に良寛さま好物の酒がかけられ、金石文化研究会の豊島猪男が音頭をとった万歳三唱が社頭にこだまして、建碑を喜び合いました。
由緒によると、神明社は中世における三条城の大手先鎮守として創建された神社で天照皇大神を主神に、誉田別尊・天児屋根尊が配祀されています。境内には稲荷社・金比羅社・和歌三神社・杵築社を鎮座。詩碑の建つ庭園は、京都に生まれ、三条に住んだ京都風築庭の名手、美右の作庭によるものです(神明町・外山虎松談)。昭和初年境内に古い池があり危険なことから、庭園の改築が施されたものです。
また、「三条の御坊にて」と題して、
不可思議の弥陀の誓のなかりせば何をこの世の思い出にせん 良寛
と詠まれた、浄土真宗大谷派の三条別院(本町2)が近所にあります。この寺の名称は東別院で、通称御坊さまで親しまれています。元禄3年(1690)一如上人の開山で、文政11年の三条地震、明治13年の糸屋火事で焼失、現在の堂宇は、明治39年(1906)に再建されたものです。寺の門前にある本寺小路に遊郭がありましたが、近年は料飲店が地域の周辺に軒をつらねています。11月3日から8日まで報恩講(お取り越し)があり、門前および周辺に露店市がたち、参詣の善男善女で賑わいます。