⑦三浦屋跡
三幸の俳号を持つ三浦屋幸助(1771~1834)は良寛と親交があり、家業は菓子商。銘菓「都ようかん」は良寛の好物であったといわれる。
交通
JR燕三条駅ょり3.1km
JR東三条駅ょり2.1km
JR北三条駅より0.3km
越後交通・新潟交通バス本町4丁目下車10m向い
高連道踏三条燕インターょり3.0km
解説
三幸が訪ひこし時
たどたどと山路の雪を踏みわけて
草の庵を訪ひし君はも 良寛
この歌は、良寛さまと親交の厚かった三浦屋幸助(1771~1834)が、良寛さまを国上の乙子神社草庵に訪ねた折に、良寛さまが詠まれたものです。
元禄文化と並んで町人文化が花開いた文化・文政年間(1804~29)にあって、菓子商を営むかたわら俳諧をよくし、風流をたのしんだ幸助は、号を錦水楼または三幸といいました。良寛さまの学識やお人柄をこころから敬慕した幸助は、明和8年(1771)遠藤清之丞の次男として生まれました。良寛さまより13歳年少でした。加茂上条から二の町(本町4)に移住し、巣子を製造・販売していました。紀興之の『越後土産』(1864年刊)初編の産物見立取組に所収されている三条の代表的銘菓「常盤餅」をつくり、なかでもこの店の「都羊羹」は、良寛さまの好物だったようです。
幸助は横田の旧家若林荘五左衛門の妹、幾久を妻に迎え、七男三女をもうけました。長女の千代は荒町の漢方医の山本宗純に嫁ぎましたが、男の子は早世のものが多く、結局六男の元助が父、幸助の死後家業を継ぎました。幸助は良寛没後3年半を経た天保5年(1834)6月28日、64歳で死亡。嗣子の元助は父の影響をうけて、文雅の道を親しみました。元助は父の死の翌年、同じ町内の成田伝吉、三の町の小林卯兵衛、五の町の市川関右衛門らとはかり、三条八幡宮の境内に良寛の乞食詩碑を建立したひとりです。
三浦屋は元助の代になり、店を一の町に移し、さらに加茂にも店を構えるなど盛んでした。元助の没後さらに御坊門前の本寺小路へ移転したこともあって、本寺小路にあった飯盛女抱旅籠屋の三浦屋と、菓子屋の三浦屋を混同して、近年まで、良寛さまが三条の妓楼三浦屋で遊ばれたとされてきました。良寛さまが三浦屋に宛てられた書簡の遺墨に、
「先日つかは(さ脱)れ候ものは庵のあたりの長四郎と申すものの家へあづけおき候 やしゃびしやは前の大木のまたにうゑ(え)候まことにつき候 以上
四月十五日 良寛
三浦屋 良寛 」
があります。「やしゃびしゃ」は「やしゃびしゃく」で、ユキノシタ科の落葉灌木で「天梅」とも呼ばれている植物です。乙子神社境内に居往されていた時の書簡と見られています。このほか、三条地震直後、宝塔院の隆全和尚に宛てた書簡に、幸助の安否をたずねた遺墨も現存しています(「⑩良寛ゆかりの宝塔院」参照)。
文政4年(1821)4月、良寛さまは「月の兎」の長歌を幸助に書き与えられています。月世界に棲むとされる兎にまつわる仏教説話を長歌にして、歌の末尾に「文政四年辛巳月三幸」としるされたものです。この説話は、仲よく暮らしている猿と狐と兎のところヘ、空腹なみすぼらしい老人に姿を変えた天帝がやってきました。猿は木の実を、狐は魚をとってきて老人を助けましたが、兎だけは食べ物を見つけることができません。そこで、兎はわが身を火の中に投じて老人に捧げました。その行為を哀れんだ天帝は、兎を永遠に月の都へ住まわせたというものです。天保2年(1821)1月8日、良寛さまの遺骸が火葬場へ運ばれ、引導もすんだ頃、三条の者だといって男が一人駆けつけ、師の最期のお姿をひと目拝ませて欲しいと哀願しました。人々は気の毒に思い棺を開けて決別させてあげたという、貞心尼の手記「浄業余事」にある男は、恐らく幸助だったろうと推測されています。
なお、良寛さまから全紙いっばいに「し」の字を書いてもらった逸話の主人公、成田屋も幸助と同じ二の町に住んでいました。屋号を美濃屋といい、江戸中期から富商として知られ、文政11年(1828)には村上藩・村松藩から共に五人扶持を受けていました。同家では、生涯の宝とすべきものを書いて欲しいと願望、ようやく書いてもらったのが、紙いっばいにただ一字「し」の字でした。書かれた意味がわからずがっかりしている主人に、良寛さまは、「生きていく場合、死を忘れなければ過ちを少なく過ごせるだろう」と教えられたと伝えられています。