⑥今町屋跡

「この浴衣(ゆかた)洗っておくれ、(ふんどし)も」という置き手紙を添えて、良寛が洗濯物の風呂敷包みを預けたといわれる逸話がある。

交通

JR燕三条駅より2.9km 
JR東三条駅ょり2.3km 
JR北三柔駅ょり0.9km 
越後交通・新潟交通バス本町6丁目下車0.1km 
高速道路三条燕ィンターょり2.8km

解説

八幡宮に建つ良寛乞食の詩碑の冒頭にある十字街頭は、本町通りから八幡小路入口の十字路を詠まれたものとされています。この交差点の南側から五十嵐川堤防に通じる道路は、良寛さまが三条を訪ねられた当時には、現状の道幅の半分にも満たない狭い小路でした。旧幕のむかし、舟運が盛んで、洗濯や水汲みなど川途(かわ ど )が重要な役割を果たしていた頃には、八幡川途から八幡宮に通じる道であるところから宮小路と呼ばれてきました。この宮小路から東へ二軒目に煮売り商いを業とした今町屋がありました。

天真爛慢(てんしんらんまん)な良寛さまは、子どもと遊べば子どもとなり、犬と戯れれば犬の気持ちになられただけに、衣類を一日で汚くされるのが常だったようです。ある日のこと、風呂敷包みを抱えた良寛さまが今町屋を訪ねられたところ、あいにく婆さんが留守だったので、良寛さまは風呂敷包みに置き手紙を添えて帰られました。

「この浴衣洗っておくれ、(ふんどし)
○月○日   良寛
今町屋御婆様」

この手紙をはじめ、良寛さまが今町屋に宛てられた面自い消息文がたくさんあったようですが、惜しいことに明治13年の大火で全部焼けてしまったということです。

当時の三の町・四の町・八幡小路界わい(本町5・6丁目)には二・七の六斎市がたち、賑わいをみせていましたから、随所に煮売り店があり、(いち)の出店者や買い物客が気軽に店に立ち寄っていました。市の雑踏の中で、托鉢姿の良寛さまを見かけることができました。乞食(こつじき)される良寛さまを気の毒に思って、お世話をしてあげた人たちは、今町屋の婆さんだけでなく、八幡小路の一文店のおとき婆さんほか、この界わいだけでもいくつかの逸話を聞くことができます。

八幡宮前の外山正蔵家では、明治10年(1877)に行年84歳で亡くなったお婆さんが働きざかりのころのこと。店先きで天ぷらを揚げて商っていました。良寛さまが昼めし時に見えれば昼ご飯を食べてもらい、衣服が汚れていれば洗って差し上げたものだと、話しておられたのを伝え聞いているとのことです。

また、八幡小路(本町5)の渡辺甚一家は、以前は刺刀職(さす が しょく)を営んでおり、いまも屋号は刺刀屋。ここの主人は大のお茶好きで、通りすがりの良寛さまが時おり立ち寄られたとのことです。当時、同家の妻は農村を回って穀類を買い集め、店先きで商っていたことから、良寛さまが托鉢された米が重くなれば預かったり、時には換金して差し上げたと伝えられています。同家で茶飲み話に興じて良寛さまに書いてもらったという遺墨が所蔵されており、この遺墨はむしろの上でじかに書かれたことから、むしろ目のこん跡が残っています。

この当時、八幡宮境内の一隅にあった槻田神社の神主で、絵にすぐれていた五十嵐華亭(1780~1850)のもとヘ、良寛さまがしばしば立ち寄られました。華亭は良寛像を画いており、鈴木牧之(ぼく し )の『北越雪譜』とともに、越後の二大奇書とされる橘崑崙(たちばなこんろん)の『北越奇談』に、「五合庵に近ごろ一奇僧を住す」云々と、五合庵を草庵とされた良寛さまについて記述しています。崑崙の兄彦山(げんざん)は、良寛さまの少年時代、地蔵堂の大森子陽塾に学んでおり、崑崙の娘が華亭に嫁いでいるご縁もあったのかも知れません。

五十嵐川と信濃川の合流点で、川港として栄えた五の町(本町6)の舟問屋で富商の加藤重助(じゅうすけ)家に、良寛さまの弟由之(ゆう し )の孫、新一郎が婿となっています。新一郎は加藤家の七代目重助を襲名し、明治15年(1882)死没。同家八代目の妻に島崎の木村元四郎の長女が入っており、十代目重助は俳句・短歌にすぐれ、花臥衣(かがい)と号しました。情熱の歌人で知られ與謝野(よさの)晶子(あき こ )鉄幹(てっかん)夫妻が昭和9年(1934)秋三条を訪れた折、花臥衣の別荘に旅装を解き、加藤家の裏の五十嵐川河口で、信濃川の雄大な夕暮れの景観に感動して、

くろ雲と越の大河の中にあり 珊瑚(さん ご )の枝に似たる夕映(ゆうばえ)  晶子

と詠んでいます。三条を訪れた良寛さまが、この堤防に立たれた姿が浮かんできます。平成3年(1991)春、晶子の歌碑が現地に建立されました。同じ町内の旅籠(はたご)加賀屋の勝手口に立った良寛さまが、無言で腕を差し出し、物乞いをされた話など、なんのこだわりもなく、ありのままに生きられた良寛さまのエピソードは豊富です。