②最古の良寛碑

良寛没後4年天保6年(1835)、文政の三条地震に続く天保の飢饉のさなか、良寛を敬慕した三条町人たちが建立した。

交通

JR燕三条駅より3.8km
JR東三条駅ょり2.0km
JR北三条駅ょり0.1km
越後交通・新潟交通バス本町4丁目下車0.4km
高連道路三条燕ィンターょり3.2km

解説

天保2年(1831)正月に遷化(せん げ )された良寛さまの没後4年に建立の、現存最古の良寛詩碑の碑片です。この石碑には、「十字街頭(じき)()(おわ)り、八幡宮辺(まさ)徘徊(はいかい)す。児童相見て共に相語る、去年の癡僧( ち そう)今又(きた)る。越州沙門(えっしゅうしゃもん)良寛書」(読みくだし文)という七言絶句(しちごんぜっ く )による乞食(こつじき)の詩が刻まれていました。

この詩には、三条をしばしば訪れた良寛さまが、八幡宮近くの本町5丁目と6丁目の交差点で詠まれたものです。詩の大意を良寛研究家の渡辺秀英は、『町の中の托鉢を終えて、八幡さまのあたりをとぼとぼやって来た。すると子どもたちが見つけて「ほら、去年のばか坊さんがやって来たっや」と話し合っていた』と解いています。三条を訪ねられたころの良寛さまの様子が、眼前に浮かぶような三条ゆかりの詩だけに、良寛さまを敬慕してやまなかった町民たちが、いしぶみにして子々孫々に伝えようと、八幡宮境内に建立したものでした。

詩碑建立当時の三条は、文政11年(1828)11月に発生の三条地震で、町は潰滅的な打撃を被り、さらに天保の飢饉の渦中にあって、町民の窮乏はその極みにありました。こんな苦境にもかかわらず、良寛さまを思慕する町民たちによって建碑されたものです。しかし残念なことに、文久元年(1861)4月、千六百戸を焼失した上町(本町1)塗師屋火事で詩碑は崩潰してしまい、ただ一枚の拓本(縦20cmセンチ・横45cm)を残すのみとなりました。この貴重な拓本は、本町四の松永嘉平家で軸装にして大切に保存されており、軸の裏に次のような建碑のいきさつが書かれています。

「良寛禅師は我が郷数々(しばしば)経歴せる地(なり)。偶々(たまたま)八幡宮に遊び、十字街頭の詩を()す。当時有志者成田伝吉(なり た でんきち)、市川関右衛門(せき え もん)、小林卯兵衛(うへえ)、三浦屋元助等相謀(あいはか)り、八幡杜内に建設す。(けだ)し文政十年頃ならん。惜しむべし、其の碑、文久辛酉(かのととり)四月十日火災に燼滅(じんめつ)す。我が家(さいわい)石摺(いしずり)を存す。以て表装して我が郷の記念(と)す。
明治三十五年五月  松永嘉平」

この碑片が発見されるいぜんは、明治35年(1902)に書かれたこの記述をもとに、良寛さまご生前中の文政10年(1827)ころに石碑が建てられたものとされてきました。文政10年といえば、良寛さまは70歳で、島崎の木村家内に草庵を移されていたころ、すでに三条に良寛碑があったことになります。しかし、この碑片の発見によって、良寛没後に建立されたものであることが判明しました。

碑片が発見されたのは、昭和60年(1985)夏のことでした。松永家の分家に当る松永克男氏が、知人を案内して八幡公園内のいしぶみを散策中、奇しくも築山の一隅に土留めとして使用されていた刻字のある石片を見つけ、土を払ってみたところ、まぼろしのいしぶみとされてきた乞食詩碑の拓本にある墨跡とおぼしい文字があり、さっそく生家の拓本と照合の結果、碑面の刻字は、詩の末尾の文字「来」の字の三分の二ほどの部分であることが確認されました。碑片は高さ50cm・幅56cm・厚さ30cmのもので、碑面に向かって右側面に、「天保六年乙未(きのとひつじ)春三月建之」とあることから、これまで最古とされてきた、安政5年(1885)に建立の分水町国上の乙子(おとご)神社詩歌碑より、さらに23年も前に、三条の町民たちが良寛詩碑を鎮守の境内に建てていたことがわかります。詩碑の石質は、三条市内を貫流する五十嵐川の上流で産出の安山岩で、火災に遭って亀裂を生じたうえ、風雪によって碑面の剥落が懸念されたことから、八幡宮藤崎圀彦(ふじさきくにひこ)宮司の好意で、市立図書館へ移管されたものです。

なお、八幡宮境内の弁天島に現存する同文異筆の乞食碑(「⑤良寛乞食の詩碑」参照)は、山崎豊吉(とよきち)町長・八幡官藤崎恵積( え ずみ)宮司ら、僧良寛遺跡建碑を懇望した町民にょって、昭和天皇のご成婚を記念して、大正13年(1924)1月に、大火で崩潰した詩碑の代替として再建されたものです。