⑪三浦屋幸助の墓

もの言はぬ花にもの言ふ墓の前 三幸

天保4年(1833)春、良寛の三周忌の法要が営まれた折、島崎の隆泉寺の良寛墓前に、俳人三浦屋幸助が手向けた句である。

交通

JR燕三条駅より2.9km 
JR東三条駅より2.1km・JR北三条駅ょり0.1km 
越後交通・新潟交通バス本町4丁目下車0.4km 
高連道路三条燕インターょり2.6km神明社前

解説

もの一言は(わ)ぬ花にもの言ふ(う)墓の前  三幸

 天保4年(1833)3月4日、島崎の木村家の菩提寺隆泉寺(りゅうせんじ)に良寛さまの墓碑が建てられ、三周忌の法要が営まれました。この折に三浦屋幸助(本名・遠藤幸助)が、良寛さまの墓前に手向た句です。幸助はこの句を詠んだ翌5年6月28曰、64歳で亡くなり、それまでご縁借りの寺としていた定明寺(じょうみょうじ)に葬られました。戒名は錦室祖水居士(きんしつそすいこじ)、良寛さまの遷化(せんげ)から3年半後のことでした。(「(7)良寛と親交のあった三浦屋跡」参照)。

 幸助の没後元助(もとすけ)が跡を継ぎ、家運は栄えましたが、その後数代にわたり嗣子が若死にするなどあって、同家は明治初年、三条を引き払い、加茂へ移住しました。この折、墓を加茂の双璧寺(そうへきじ)に移したのでした。さらに、明治末年には子孫が新潟市に転住したため、墓は加茂に無縁同様となっていました。

 文化・文政期に花開いた三条の町人文化を研究するうえで、見逃すことのできない謎の多い三浦屋幸助の足跡を追っていた、郷土史研究家の丸橋康文が、たまたま加茂で幕末に出された俳句募集の広告の中に、三浦屋菓子舗の名を見つけ、子孫が新潟市白山浦で菓子店を営んでいることをつきとめることとなりました。子孫に会ってその経緯を話した結果、同家の過去帳と符合しましたが、遠藤家では既に新潟の寺に墓があり、加茂の墓のことは全く知られていませんでした。

 そこで、良寛ゆかりの三条文人の墓がこのょうな状態にあることは偲びないと、できたら以前あった定明寺に戻し、郷土の先賢として、三条市民の手で墓を守りたいとの声が起きました。三条良寛会・三条郷土史研究会・越後文学会・二十日会などの有志によって、三浦屋幸助追慕の会が結成されました。同会の肝いりによって、遠藤家・双壁寺。定明寺の同意を得、幸助の墓を定明寺に復帰することとなったものです。

 定明寺では、特に本堂前の参道に面した、同寺開基とされる三条左衛門尉定明(さだあき)公の墓の隣に墓所を与えられ、昭和59年(1984)9月移建、10月7日定明寺に子孫を招き、追幕の会から60人が参列して、ささやかな法要を営み、先人を偲びました。時に幸助没後150年のことでした。定明寺の寺伝によれば、同寺は延徳元年(1489)に開山され、当初は天台宗であったが、のち曹洞宗に改められたもので、三条城主、三条左衛門尉定明の菩提寺であったとされています。  ところで、不世出の傑物良寛さまをこよなく敬慕した一介の三条商人の幸助は、良寛さまの葬儀に馳せ参じ、香典金壱朱に添えて、師の好物だった自家の銘菓「都羊羹」2本を霊前に供えています。木村家の『良寛上人御遷化諸事留帖』にょると、幸助のほか三条から大島の山香寺住職が弔問に参じ、宝塔院や善性寺からも香典が届けられました。

 幸助は良寛さまの百日忌に小豆ご飯を霊前に供え、ささやかな法要を自宅で営みたいので光来いただきたい旨の書状を、娘の嫁ぎ先の荒町の漢方医山本宗純(やまもと・そうじゅん)に差し出しています。在条の知己により師の供養を営んだものと推察できます。

 文政9年7月には、塩沢の文人鈴木牧之(すずき・ぼくし)が三条を訪れ、幸助宅で終夜もてなしをうけ、「あらうれし君か心の盆の月」ほか2句を詠んでいます。また見附の俳人六合庵茶山(りくごうあんさざん)宗匠との交際も深く、幸助の没後百日忌に茶山は一句を手向け、故人を偲んでいます。

三幸老人百ケ日

亡き人の白髪や霜の枯尾花 茶山

 なお、定明寺に近い浄土真宗の善性寺(ぜんしょうじ)には平櫛田中(ひらくし・でんちゅう)作の木彫「良寛さま」が所蔵され、時宗の乗蓮寺は本尊・木造阿弥陀如来像が、鎌倉時代後期の作とされ、国指定重要文化財となっています。寺の開基では三条で最も古い寺のひとつで、徳治2年(1307)蓮阿(れんあ)により創立された寺です。