⑤良寛乞食(こつじき)の詩碑

 

 

(2)の最古の良寛碑が大火で破損し、大正13年(1924)1月昭和天皇のご成婚を記念して再建。

交通

JR燕三条駅ょり3.2km 
JR東三条駅ょり2.5km 
JR北三条駅より0.6km 
越後交通・新潟交通バス本町6丁目下車0.2km 
高速道路三条燕インターょり2.8km

解説

十字街頭乞食了    十字街頭食(じき)を乞(こ)い了(お)わり
八幡宮辺方俳徊    八幡宮辺方(まさ)に徘徊(はいかい)す
児童相見共相語    児童相見て共に相語る
去年癡僧今又来    去年の癡僧(ちそう)今又来たる
    釈良寛書


 三条の鎮守八幡宮界わいで詠まれた乞食の詩です。三条を尋ねられ良寛さまは、八幡宮で子どもたちを相手によく遊ばれたと伝えられています。

八幡の森の木下に子供らと遊ぶ夕日の暮間惜しかな


 八幡宮で詠まれた歌ですが、乞食の詩ともども、三条での良寛さまの生きざまが如実に伺えるように思われます。

 三条には良寛さまを思慕する町民たちがおおぜいいました。町民たちの慕情が良寛さまの没後間もなく、どこよりもはやく、八幡宮ゆかりの乞食詩碑建立となったものでした。しかし、残念なことに、文久元年(1861)春の大火で罹災、滅失してしまったのでした。(「(2)最古の良寛詩碑」参照)。

 以来、63年摂政宮(せっしょうのみや)であった昭和天皇のご成婚を記念して、大正13年(1924)、山崎豊吉三条町長や八幡宮藤崎恵積(えづみ)宮司らが発起人となって、詩碑を再建したものです。摂政宮のご成婚の挙式が関東大震災で延びていたことなどから、同年4月5日に除幕が行われました。

 最古の詩碑の二代目となった乞食詩の碑文は、三条文人のひとり岩田愛山所蔵の原本を借りて写真で拡大し、高さ280cm・幅120cmの仙台石に刻まれました。良寛碑としては、良寛さまの修行地、岡山県倉敷市玉島の円通寺の詩碑に次ぐ大きなものとされています。

 良寛さまがしばしば訪れられた八幡宮は、社記によると仁和元年(885)に京都石清水(いわしみず)八幡宮を勧請(かんじょう)して鎮守としたもので、はじめ東大崎地内の八幡山に祭祀されていた神社です。その後建久年間(1190~1209)に八幡山から里に下り、慶長4年(1599)現在地に遷宮されました。誉田別尊(ほんだわけのみこと)・気長足姫命(きながたらしひめのみこと)・比売大神(ひめおおかみ)を祭神とするこの神社には、室町時代初期につくられたと見られる信国(のぶくに)の銘のある神宝の大太刀が所蔵されており、県の指定文化財となっています。また、同社に伝承される三条神楽は県指定無形文化財に、文明3年(1471)奉納の銘のある鰐ロ(わにぐち)、十万石格式の大名行列など、市指定の文化財が保存されています。

 社殿は三条地震・文久元年・明治2年につづいて同13年(1880)に発生した大火によって、それぞれ焼失してきました。明冶13年5月の三条未曽有の大火で焼失した神社の大幟(おおのぼり)は、良寛さまと江戸の儒者亀田鵬斎(かめた・ぼうさい)(1752~1826)の合作による、ユニークな傑作であったと語り伝えられています。鵬斎は老中松平定信(まつだいら・さだのぶ)の寛政改革に伴う異学の禁で江戸を離れ、信州を経て文化6年(1809)秋、越後に入り、越後と佐渡に2年半ちかく滞在し、良寛さまとの出会いを重ねました。

 博学で書をよくした鵬斎の名声を聞いて、三条の人たちは鎮守の幟(のぼり)を鵬斎に頼んで揮毫(きごう)してもらうことになりました。天下に高名な大学者の揮毫をひと目見ようと集まった、多くの見物人の中に良寛さまの姿を見つけた鵬斎は、一対の幟を良寛さまと自分で一張(ひとはり)ずつ書きくらべることにしようと思いつき、いやがる良寛さまを口説き落してようやく筆を持たせることにしました。まず鵬斎が大幅の天竺木綿(てんじくもめん)の片方に、墨こん鮮やかに「はちまむさま」と書きました。はて、良寛さまがなんと書かれるだろうと、並んでいる見物衆がかたずをのんで見守る中、やおら筆をとられた良寛さまは、「ございれい」と書かれました。さすがの鵬斎も良寛さまの機知と見識の高さに敬服したとのことです。儒者鵬斎先生と名僧良寛さま合作・天下無類のかな書きの大幟は、春秋の三条祭りに社頭に建てられ、異彩を放っていたということです。