④村山半牧の頌徳(しょうとく)碑

   

良寛没後4年天保6年(1835)、文政の三条地震に続く天保の飢饉のさなか、良寛を敬慕した三条町人たちが建立した。

交通

JR燕三条駅ょり3.2km 

JR東三条駅ょり2.5km 

JR北三条駅より0.6km 

越後交通・新潟交通バス本町6丁目下車0.2km 

高速道路三条燕インターょり2.8km

解説

 この頌徳碑は、南画家(なんがか)で勤皇の志士であった三条文人、村山半牧(1828~68)の事績を後世に伝えるため、半牧の弟、遯軒(とんけん)が建立したものです。  半牧は文政11年2月4日父左内(さない)・母奈加(なか)の二男として、古城町(三条市元町)で生まれ、名を秀一郎(ひでいちろう)といい、字(あざな)は其馨(きけい)、号を荷汀(かてい)、後年半牧方士と称しました。父・長兄(俊貞)の二代にわたる私塾の家に育ち、幼い時から利発で、特に画をたしなみ、17歳のころ二の町(三条市本町4)に住む絵師長谷川嵐渓に師事しました。その後京都に出て画道に励むかたわら、勤皇家で書画をよくした藤本鉄石(ふじもと・てっせき)・山中静逸(やまなか・せいいつ)・江馬天江(えま・てんこう)らと親交を結び、山陽・山陰から九州長崎を歴訪し、古今の奇勝・名跡を探り、画技をすすめました。

 尊皇攘夷論の高まりの中で、文久3年(1863)8月、鉄石の率いる天誅組(てんちゅうぐみ)が挙兵、失敗して鉄石の憤死を播州(ばんしゅう・兵庫県)で聞き、半牧は急ぎ京都に帰り、同門の筒井香山(つつい・こうざん)とはかって、鉄石の妻子を故郷の備前(びぜん・岡山県)に送り、元治元年(1864)5月、19年ぶりに三条に帰郷しました。この挙兵いらい幕府の義徒追求が厳しく、取りあえず四の町(三条市本町6)の遯軒の家に同居、翌年古城町三社さまの角に読古書堂を建てて転居しました。

 三条へ帰ってから自害までの4年間、ひそかに加茂の小柳春堤(おやなぎ・しゅんてい)・雛田松渓(ひなだ・しょうけい)、星野藤兵衛(ほしの・とうべえ)らと尊皇の大義を論じ、勤皇活動をすすめるかたわら各地を訪れ、絵をかくなど多忙をきわめました。この間渡部の阿部家を幾度か訪れ、当主定緝(さだつぐ)と親しく交わり、同家所蔵の良寛遺墨を見せて貰い、歌を筆写して、良寛歌集の原稿をまとめあげています。

 渡部の部落は、大河津分水の開さくで分水の対岸に移転しましたが、分水ができる以前は国上の部落に次いで五合庵に近く、良寛さまと親交の厚かった阿部家七代の定珍(さだよし)は、頻繁に五合庵を尋ね、良寛さまも定珍のところに通っています。阿部家は代々渡部の庄屋をつとめ、酒造業を営んでおり、定珍は和歌や詩文を好み、村政にもすぐれ、種々の物資を贈り、良寛さまの生活を助けました。

 半牧と親交のあった定緝は、定珍の十二子で、庄屋役を継ぎ公事に尽力し、村上藩三条陣屋へ月に一、二回は出向き、半牧をはじめ長谷川嵐渓、佐藤松だ・小雪(しょうせつ)ら三条文人と親しく交際を重ねたとされています。

 幕末の風雲は急を告げ、慶応4年(1868)3月、北陸鎮撫総督の越後入りを聞き、半牧は春提らとともに越後平定に建白書上提をはかり、戦火の拡大とともに東奔西走して征討軍に協力しました。しかし、東北同盟軍の探索が厳しさを増し、ついに身辺に危険が迫り、見附内町の近藤祐次郎(こんどう・ゆうじろう)家に遁(のが)れ、春堤・松渓ら処刑の誤報を聞いて、城山の山麓の小屋で6月14日払暁、

月も日もみな常闇(とこやみ)となりぬるを

わが身ひとつは物のかずかは

皇(すめらぎ)の道てふ(ちょう)道はあれはてて

わかつかたもなき世ぞあわれなる

 と二首の辞世の歌を残して、縊死(いし)を遂げました。享年41歳。半牧の墓は、明治24年(1891)に見附から八幡小路(八幡町)の泉薬寺(せんやくじ)に移されました。半牧の編さんした『僧良寛歌集』は、その遺志を継いだ同志片桐省介(かたぎり・せいすけ)の弟、小林二郎(こばやし・じろう)によって、明治12年(1879)3月15日新潟の精華堂印刷所から刊行されました。この歌集は半牧の筆写したものを木版に彫り、美濃紙18枚に116首を選んで収めた和とじの本で、明治26年に改版、同35年・39年・44年に版を重ねて出版。その後昭和16年(1941)には三条市の良寛歌集刊行会、同48年(1973)には野島出版によって復刻されています。

 明治33年(1900)会津八一がこの『僧良寛歌集」を病床の正岡子規に献本、子規が良寛さまを知るところとなり、さらに伊藤佐千夫(いとう・さちお)・斎藤茂吉(さいとう・もきち)らの歌人に紹介され、後に相馬御風(そうま・ぎょふう)・吉野秀雄(よしの・ひでお)らに引き継がれ、良寛さまが広く世に知られるきっかけともなりました。

 なお、半牧方士の碑は高さ198cm、幅95cmの五十嵐川産石で、篆額(てんがく)の筆者は富岡鉄斎(とみおか・てっさい)、撰文は、江馬聖欽(えま・せいきん、天江)、碑文の筆者は栗本義喬(くりもと・よしたか)で、明治31年秋建立されたものです。