③良寛落葉の句碑

 

 

交通

JR燕三条駅より3.8km 

JR東三条駅ょり2.0km 

JR北三条駅ょり0.1km 

越後交通・新潟交通バス本町4丁目下車0.4km 

高連道路三条燕ィンターょり3.2km

解説

JR弥彦線北三条駅前の石黒病院裏手、三条小学校東玄関前日吉(ひよし)神社境内に、国上の五合庵に建つ良寛落葉の句碑を模刻したいしぶみがあります。碑文は

堂久保登盤 閑勢閑毛天久留 於知者可難  良寛書

 とあり、「焚くほどは風がもてくる落葉かな」と読みます。良寛さまの悠々自適の境涯を詠まれた句としてよく知られています。

 良寛さまと同時代の俳聖一茶(いっさ)に「焚くほどは風がくれたる落葉かな」という句があり、「もてくる」と「くれたる」の所だけが異なる類句ですが、この違いが良寛さまと一茶の心境の違いともいえるように思われます。

 また、晩年の良寛さまに師事した貞心尼に、「朝餉(あさげ)たくほどは夜の間(ま)に吹きよする落葉や風の情(なさけ)なるらむ」と詠(よ)んだ歌があります。俳句と短歌の型式の違いはありますが、良寛さまと貞心尼の心情は同じであったようです。

 この落葉の句には、次のような逸話が伝えられています。文政2年(1819)7月のこと、長岡藩九代の藩主牧野忠精(まきの・ただきよ)(1760~1831)が、良寛さまの人柄を慕い、良寛さまのこころを藩政に生かしたいと、新潟を巡視した帰りみち国上に立ち寄り、良寛さまを城下へ迎えたいと懇請されました。無言のまますわっていた良寛さまは、おもむろに筆をとり、「焚くはどは……」の句をしたため、忠精侯の前に差し出されました。世俗的な欲望に関心を持たなかった良寛さまには、領主の庇護をうけて一寺の住職になろうなど、毛頭考えられなかったことでしょう。忠精は、越後から老中になったはじめての人物で、学問だけでなく、和歌や墨絵にもすぐれた藩主だっただけに、良寛さまの気高い心境に敬服し、いたわりの言葉を残して山を下ったとのことです。忠精がこの時につくられたと思われる句に、「見渡せば山ばかりなる五合庵」が残っており、良寛さまの心を得られなかった無念さが感じられます。

 ところで、落葉の句碑のもととなった五合庵の句碑は、大正7年(1918)に初の「良寛全集」を著作刊行した玉木礼吉が、生涯をかけたこの事業の記念として、大正9年春に良寛さまゆかりの地に建立したものです。原本は玉木家所蔵の小色紙に二行に書かれてあった句を、写真に拡大し、三行に配字して刻字したと伝えられています。

 五合庵の句碑が建てられた当時、高さ137cm・幅67cmの仙台石に、五合庵の句碑を模刻したものがつくられ、分水町にあったものを、のちに、南新保(三条市)の小師壮吉が買いうけ、自宅の庭に所持していました。このことを豊島猪男・佐山與三郎・長谷川秀雄ら拓本研究家の知るところとなり、さらに日吉神社の氏子の平原二三郎・長沼重太郎らも加わり、良寛落葉の碑建設委員会を結成、小師壮吉より句碑の寄進をうけ、日吉神社境内に建立したのがこのいしぶみです。

 句碑は寄進者の小師壮吉の一周忘を機に、昭和39年(1964)7月14日に除幕式を挙行、壮吉の孫、利一によって幕が落とされ、公開の運びとなりました。句碑のある日吉神社一帯の地域は、元和2年(1616)に市橋長勝(いちはし・ながかつ)が三条藩主となって入封し、新城を築き、三条島(しま)の城(じょう)から本拠をここに移した由緒あるところです。その後ほどなく三条藩は廃藩され、三条城は廃城となりましたが、元禄元年(1688)村上藩四万石領を統轄する三条陣屋がこの地域に設けられた折に、陣屋の屋敷内守護神とし創建されたのが日吉神社で、明治13年(1880)に現在地に遷座され、今日に及んでいます。