①良寛禅師像


三条市井栗出身の彫塑家、桝沢清が制作、昭和2年(1927)に完成。その原型に基づいてつくられた。

交 通

JR燕三条駅より3.8km

JR東三条駅ょり2.0km 

JR北三条駅ょり0.1km 

越後交通・新潟交通バス本町4丁目下車0.4km 

高連道路三条燕インターょり3.2km

解 説

 「越後三条良寛の道」のスタート地点に建立された良寛坐像は、三条市井栗出身の彫塑家桝澤清(ますざわ・きよし)(1892~1948)が制作した、良寛像の傑作です。

 大正11年(1922)出雲崎の良寛さまの生家屋敷跡に良寛堂建立当時、良寛さまの塑像がなかったことから、柏崎市出身の医師田代良介(たしろ・りょうすけ)が、朝倉文夫門下の十傑の一人で、良寛敬慕の念の厚い気鋭の彫塑家桝澤清に相談したのが、像制作のきっかけとなりました。制作に当たって桝澤は、良寛さまの自画像をはじめ、良寛さまに師事した僧、遍澄(へんちょう)の描いた坐像、三条槻田神社宮司で画家としても知られた五十嵐華亭(いからし・かてい)、江戸の儒者、亀田鵬斎(かめた・ぼうさい)らの描いたものを参考にしたと伝えられています。また、良寛さまの弟、由之(ゆうし)の孫で、三条五の町(本町6)の加藤重助(かとう・じゅうすけ)家の婿となった泰舒(やすのぶ、新一郎)が背が高く、面長で鼻も高く、眉目が秀麗で、良寛さまに似ていたことなど参考にしました。さらに、終生を良寛研究に捧げた佐藤耐雪(さとう・たいせつ)、南蒲原郡中之島出身でわが国彫塑界の第一人者武石弘三郎(たけいし・こうざぶろう)、日本画家安田靫彦(やすだ・ゆきひこ)らの意見を聞いて、尊像の原形がつくられました。

 5年の歳月をかけて昭和2年(1927)に完成した尊像は、約19cm(6寸3分)青銅製の鋳像に製作、新井石禅(あらい・せきぜん)・入澤雲荘(いりさわ・うんそう)(達吉)・市島春城(いちしま・しゅんじょう)・相馬御風(そうま・ぎょふう)・高橋雄峰(ゆうほう)・安田靫彦の6人の名士が箱書きのうえ、ひろく頒布されました。尊像制作後60余年、近年とみに全国的に良寛敬慕の気運が高まってきています。このような状況の中で、郷土出身の彫塑家による尊像の傑作をとおして、良寛さまを偲ぶことができたらとの崇敬者たちのたっての願望がありました。その願いにこたえて、桝澤益男(ますざわ・ますお)ら制作者の親族によって、像高105cmの青銅製の尊像に復元ざれ、平成元年(1989)、三条市に寄贈されたのがこの像です。

 尊像は、多数の市民が良寛さまのお姿に触れることがでさるようにとのことから、市立図書館前に建立されました。  作者の桝澤清は、明治25年12月20日、井栗村甲154番地(現三条市大字井栗)の医師桝澤啓之助の長男として誕生。父啓之助は東京医学校に学び、井栗へ帰り「道順」と呼ぶ四代続いた医者を継ぎましたが、新潟県の要請を受け、医師不足の中条町に移住。清は新発田中学校から東京美術学校(現東京芸術大学)塑造科にすすみ、大正6年(1919)選科を卒業。朝倉文夫に師事、同八年朝倉が東京美術学校出身の若い彫刻家を集めて結成した東台彫塑会の創立会員となり、第1回帝展をはじめ、大正博覧会記念展などに入選。肖像・建築デザイン等の分野で活躍しました。

 昭和20年(1945)東京滝野川で戦災に遭い、作品や資科を焼失。一時、西蒲原郡国上村渡部(現分水町)に疎開。のち、農民運動家、須貝快天(すがい・かいてん)の養子となった実弟の須貝次郎(すがい・じろう)の住む中条町に転居。戦後は県展の前身、文化祭新潟美術展の開催に尽力、21年には新潟県彫塑家連盟を結成、県下の文化振興に奔走しました。戦後の芸術復興の曙光がようやく見えはじめた23年11月30日朝、自宅で脳溢血で倒れ急逝。桝澤家の菩提寺、三条市如法寺(当時本成寺村)の海蔵院に葬られました。死の前日詠んだ句に、次のものがあります。

  山茶花の散る日となりぬ雲低く  清